「lain」 (serial experiments lain) 観ちゃいました。。。
前から知ってた作品です。
EDテーマを、RCサクセションのチャボ(仲井戸)さんが歌ってるってて、それを観たのが最初の出会いだったはず。。。
「哲学するアニメ」という形容がピッタリと思います。
(近)未来SFの世界での出来事ですが、現代の世の中に当てはまることが多々あります。
観てすぐ、手塚治虫の作品や攻殻機動隊が浮かびました。が、観てるうちに、この作品がやろうとしてることが全く違うということに気づきます。
「存在は認識=意識の接続によって定義され、人はみな繋がれている。記憶とはただの記録にすぎない。」
これが、このアニメのテーマです。現実(リアル)世界と、仮想空間(ワイヤード)との境界とは何か?このアニメではそれが曖昧になっていきます。
1998年の作品ですが、当時観た人はどう思ったのでしょう?
当時と今とでは、観た印象が全く違うのではないでしょうか??
というのも、1998年と現在では、ものすごい速さで環境が変わっています。スマホが当たり前の世の中となり、多くの人間が簡単に仮想空間にアクセスできます。
このアニメに出てくる様々な設定は、20年の時を経た今、現実に直面する問題となっているのではないか。。。そう考えると、技術や進歩の速さに寒気すらしてきます。
内容を簡単にかいつまむと…
主人公の少女lainが、NAVIを手に入れてからワイヤード(仮想世界・アクセス)に異常な才能を発揮し、現実世界と仮想世界の境界を壊し、最終的には仮想世界の神=世界に遍在する存在になる。
というもの。
ってか、話が抽象的&難しすぎて、いろんな解釈が出来る=どんな考察も正解
と思えてきます(作者の頭の中覗いてみたいです^^)
そんな感じなので、以下、私の備忘に簡単な私見を…
このアニメが特異な点は、現実世界から仮想世界へアクセスするというより、
現実世界と仮想世界が限りなく=な世界、もっと言えば、仮想世界の方が現実世界より上位の次元として描かれています。
確かに、認識されることで人は自分を定義するのだとしたら、それが現実世界であろうが仮想世界であろうが関係ないのかもしれません。
先日、ニュースで、脳をデータ化することで不老不死が可能になるという記事を読みました。まさしくその通りで、そういった世界が現実になるのであれば、仮想世界こそ人が実質的の存在するフィールドになるのかもしれません。
そして、その中で遍在する存在となったlainは、まさしく神であり、それは同時に自分を持たない、つまり何もない存在とも解釈できそうです。lainは人と人とのつながりの媒介、いわば意識の海の海水のような存在となり、どこにでも存在し、どこにもいないものとなった。
これって、今の世界(日本)の状況にも当てはまるような気がします。
仮想空間における様々なシステムが、多くのことを可能にしている一方、消えていく個人という存在。
このアニメで重要な登場人物である瑞城アリスは、そんな世界に対していわばアンチテーゼ的な役割を果たします。アリスは、lainを抱きしめますが、それは存在することへの祝福(ここで言う存在とは、現実世界において質感をともなった存在)
アリスは人並みの感情や幸せを得ますが、それはlainにとって得られないもの。
二人はお互い違う道を選び、お互いの存在を認め繋がり、そして親しみと好意を憧れを持っています。同時に、どこかで決定的に違う価値観。単純な対比で言えば、遍在存在なのか、個人としての存在なのか、仮想世界に生きるのか、現実世界に生きるのかの対比。
うーん、、、ここまで書いて、そんな単純な解釈じゃないような気もしてきました…
もう一度観直してみようかな。。。